蒼天の空 第5章 蒼天の空 ―神々の大地―



     第五章 科学技術都市

 大多数の文久人は、歩いて移動の出来ない長距離の移動には疾空天籟(ディルギス・ザーフェン)という文久魔術を使う。
 これは風の精霊魔術を利用したもので、詠唱する者が向かおうとする場所に一種の瞬間移動のようなものをすることが出来る。
 但し、その代わりに風が全く吹かない場所(密閉された建物の中や空間の中)や、精霊の影響が及ばない文久国以外の国では使うことが出来ない。

()き風を司る者、遊泊せし束ざる迅き者よ! その身をば風と帰し、かの地に到らしめん!」
 陽祥が詠唱すると、その周囲には一陣の風が吹き荒れ、陽祥は一瞬のうちに消えた。



 疾空天籟によって向かった先、文久国東部の都市で国内第三の都市でもある稜燕───
 ここは兼祐国との国境が近く、多くの兼祐人も住んでいる。
 そのため、この街には文久国でありながら兼祐の文化が入り交じった、独特の雰囲気がある。
 陽祥は稜燕に着くと、この都市と文久国の東部地方を防備する兵士達の統率者のいる建物に向かった。
 その建物は市街地のやや北の外れの小高い丘に建ち、稜燕を一望出来る場所にある。
 国都・慶安にある慶安城などもそうだが、文久国の指揮系統や中枢が集まる場所は、大抵が都市を一望出来る小高い丘の上に建ち、機能を効率化させている。
 その丘の周囲に、これを警備する兵士の小屋が建っているというのが文久国の都市に共通した特徴だった。

「私は慶安で宣照王陛下に御仕えする陽祥という者です。安東都督様に御取り次ぎ願いたい」
陽祥は丘の上に建つ、この建物の前で警備に当たる兵士に声をかけた。
「はっ…今しばらくお待ちを」
 兵士はこのように言って奥に去っていった。
 しばらくし、戻ってきた兵士は陽祥を建物の一室に案内した。
「ここで都督様はお待ちです」
 陽祥が戸を開けると、そこにはがっちりとした体格の、偉丈夫な男が席についていた。
「慶安より遠路、よく参られた。軍装のままであることをお許し願いたい」
 安東都督の任に就く男は鎧を身につけたまま、陽祥を歓迎した。
「安東都督の御苦労、労い申し上げます。この稜燕も随分町並みが変わりましたね」
「陽祥殿が稜燕に参られたのは一〇年近く前であられたな。
 その間にも、この街は兼祐国との結びつきが強まるとともに発展してきた。
 今、稜燕と兼祐国の芳寧との間に"鉄路"が通っているのを御存知か?」
「鉄路…ですか? 何のことか全く存じませぬ」
「兼祐国では今、鉄路と呼ばれるものが急速に広がっているのだ。
 これは箱のような中に多くの人を乗せ、地面に敷かれた長い鉄の棒に沿って走る。
 我等文久の人間にとっては、想像もつかないような物が往来しているのだ」
「そのようなものが…。
 私はこれから兼祐国に赴き、この国の主席に謁見する任を仰せつかっています。
 この後、その鉄路というものがどのようなものか、見て参りたいと思っております。
 この度都督様の下に参ったのは、この兼祐国について話を伺いたかったのです」
「そうか。そういえばかつて陽祥殿は昭武国以外の国には行かれたことがないと話しておられたな。
 兼祐国は、文久国の全てが魔術によって支えられているように、国全体が思考エネルギー理論によって支えられているのだ。とはいえ、住んでいる人々と我々に大きく異なるところはない。
 現に、この稜燕に住んでいる兼祐人を一目では見分けられぬであろう?」
「確かに…。それなら大して気を張る必要はありませんね」
「その通りだ。
 戴宗国の者達は知らぬが、兼祐国は勤勉や無条件な互助の精神を極めて大切にする国だ。
 知らぬことはその場にいる者に聞くのが最良ということを覚えておかれよ」
 安東都督はそう言うと、部下の一人に盃を準備するよう命じた。










 ───間もなく、当地は芳寧中央停車場、芳寧中央停車場に到着でございます…
 どこからともなく案内の声が聞こえてくると、"鉄路"を走る車体の内部はざわめき始めた。
 周囲の人々が荷物を取りまとめ、降りる準備をしているのを見て、陽祥は目的地が近いことを知った。
 兼祐国の領土に入って一週間あまりが経過し、鉄路の乗客は始発の稜燕とは様変わりしている。
「そうかそうか、あんた文久国の人か。
 この国に来るのは初めてなんじゃ、鉄路を降りればすぐに驚きの連続だろうさ。
 まあ、ゆっくりしていくのがいいさ…芳寧にない物は蒼高祇邦にもないしな」
 陽祥は数日前から同席した乗客の男と別れを惜しんだ。
「御厚意に厚く感謝します。また何処かでお会い出来ることを願っています」
「おいおいやめてくれよ……どうも文久人てのは妙に堅苦しいから苦手なんだよ」
「そ、それはどうも失礼をしました」
 陽祥の方もまた、この兼祐人の男の礼儀にとらわれない対応に戸惑った。

 兼祐国の国都、芳寧───
 今も昔も蒼高祇邦最大の、すなわち世界最大の都市として発展と繁栄を続けている。
 文久国の慶安もまた屈指の大都市に数えられるが、芳寧は人々の活気で慶安を圧倒している。
 政治都市である慶安と比較すると、芳寧は統治者の存在感がさほど強くなく、商工業都市と呼ぶに相応しい街ともいえる。
 市場からは兼祐国内ばかりでなく、文久国や昭武国の産物を売る商人の声も聞こえてくる。
「…自由市場経済主義の国民国家とは聞いていたが…それがこんなにも人々の活気を生み出すものなのか…」
 陽祥は一人、人々の活動を遠巻きに眺めながら感慨に耽った。
 そして、しばらく歩いていくと、前方にそれまでよりも一際高層の建物が幾つも見えてくる。
 文久国では確実にあり得ないような高さの建物に、思わず足を止めて見入った。
 ───ここまで高い建物など、どのようにして建てるのだろう…?
 立ち止まって建物を見上げている陽祥の背後から、誰かを呼び止める声が聞こえてきた。
「貴殿が陽祥殿であろう? この芳寧まで、大変な長旅をご苦労であったな」
「…!?」
「いくらこの街が大きく発展しようとも、文久人殿はすぐに分かるものだ」
 身に覚えのない男に呼び止められ、陽祥は戸惑った。
「この兼祐国において、堅い話は一切なしだ。早速主席の所まで案内致そう」
「兼祐国政府の方とお見受けしますが…失礼ながら、どなたでいらっしゃったでしょうか?」
「おお、これは失礼であった。当方は鴻臚省(外交を司る官庁)長官、潘文湘だ。
 先頃、稜燕の安東都督殿が遣わされた兵より陽祥殿の子細は既に承っている」
 男は照れ笑いしながら躊躇なく陽祥に歩み寄り、握手の手を差し出した。
「はは…そうでしたか…。
 文久国宮廷魔術師、私は陽祥という者です」
 早々からの戸惑いの連続に陽祥の胸には小さな不安がよぎったが、文湘と固く握手を交わして両国の友好を確認し合った。
「それでは早速になりますが、主席閣下のおられる場所はどちらの方角になるのでしょうか?」
「ここからは我々がご案内します。長官の公用車もこちらです」
 陽祥は文湘の秘書官の先導で、鉄路が走る車体より小さな乗り物に案内された。
 兼祐国国家主席、潘綏蓮のいる主席官邸に向かう途上で秘書官は陽祥にその乗り物を「自動車」と呼ぶことを教えた。
 思っていたほどの広さでもないし、実用性を最重視するという意味では慶安の景陽殿以上に徹底されているのかも知れない───
 文湘は官邸内に入ると、様々に思いを巡らせる陽祥に主席執務室の前で少し待つよう言った。
「主席、陽祥殿をお通しします」
「御苦労でした。執務室の前で待機していなさい」
 綏蓮はそう言うと、自ら戸を開け、陽祥を中に招き入れた。
「私は文久国より参りました宮廷魔術師、陽祥と申します。
 潘綏蓮国家主席閣下に対しましては、初めて目通りをさせて頂けましたことを大変光栄に存じます」
 陽祥は部屋に入ると一礼し、一通りの挨拶と自己紹介から始めた。
「丁寧な御挨拶、感謝します。流石に礼節を大変尊ぶ、文久国の方ですね。
 ですが、この兼祐国ではもう少し気楽に構えた方が良いですよ」
「気楽に…この国に来てからそうしようとずっと思ってはいましたが…私などには少々難しいものです」
 陽祥が少し照れたように笑みを浮かべると、綏蓮は声を上げて笑いながら言った。
「まあ、誰しもそう急には変えられないものですし、焦る必要はありませんよ。
 少しづつ私達兼祐人の考え方を理解出来るようになれれば、それで十分なんですからね。
 …それに、後々無駄にはなりませんよ」
 綏蓮は続けて一言、その方が無用な気苦労などしなくて済みますから、と付け加えた。
 そして再び立ち上がり、窓の外をゆっくりと眺める。
 主席執務室は、綏蓮の趣味か室内の至る所から明るい陽射しが差し込み、静穏な空気が緩やかに流れ込んでいた。
「いつまでも立ち話では難ですし、それでは何についてから話をしましょうか」
「この芳寧に着いてからずっと感じていましたが、兼祐国は国による統治という感覚が薄いのですね。
 私達の国からすれば、想像もつかないことです」
「そうですねえ…兼祐国では国民自治という理念が徹底しているのです。
 ですから、中央政府とも言える、この芳寧政府もまた一つの国民組織です。
 そういった意味では国民一人一人の活動こそが『国家』の活動の一側面であって、私達政府の者が規制や取り締まりによって活動を拘束するということは最後まで残されるものでしかありません」
「…だから兼祐国は自由市場経済主義の国民国家と言われるのですね」
「ええ、私達はこの国の自由というものを非常に誇りとしています。
 文久国の皆さんもこの国に住んで下されば、その大切さが分かりますよ」
 綏蓮は、それは半分冗談ですけどね、と言って再び笑った。
「それはよく分かりましたが、それだけではこの蒼高祇邦で最も広大な国を安心して住みやすい国になれると思えません。
 潘主席はその座に就くまでが、私達の国の王とは全く異なると伺っていますが、一体どのようにしてこれほどの大国をバラバラになることなく動かしているのですか?」
「さすが、文久国国王陛下の政務補佐までされている方は違いますね。
 丁度いい機会ですから、この国の政治制度についてお話ししましょうか」
 綏蓮は穏やかな表情ながら感心したように言い、国家主席執務室にある兼祐国の地図を見せる。
「この兼祐国では、779の郡に分かれた地方政府の代表が芳寧で侯議会という合議機関を構成し、国の政策を決定しています。
 この侯議会の議員から国家主席と中央政府省庁の長官が全国民の選挙で選出され、行政権を持つのです」
 綏蓮は、自分達はこれを連邦政治制度と呼んでいると説明した。
「地方では、本来は侯議会の議員が行政権を持っているのですが、彼らは基本的に芳寧で侯議員として活動している関係で、多くの場合は地方政府の次席代表者に行政権を委任し、この次席代表者が執政官として地域の行政を担っています」
「なるほど…中央の政治とは別に地方の統治を行う官吏がいるということは、文久国の太守に近いものなのかな…」



「主席、間もなく明日からの定例侯議会の政策討議に必要な準備を始めるする時刻になります。
 本日は財務長官と商務長官が出席する予定になっています」
 陽祥が熱心に兼祐国の社会システムについて教わっていたその時、執務室の外から若い女性らしき声が聞こえてきた。
「承知しました。
 …陽祥さん、明日は連邦議事院という場所で定例侯議会が行われます。
 誰でも出入りできますから、一度見に来てみるといいですよ」
「そうですね。私達の国のためにも、大いに参考にさせてもらいます」
「そういえば…文久国王より、潘主席に宛てて親書を託されていました」
 陽祥はそう言うと、一歩下がった所から掲げるようにして宣照王からの文書を綏蓮に差し出した。
「確かに受け取りました。私たち兼祐国の者たちも、文久国との友好が末永く続くことを願ってやみません」
 親書を傍にいた秘書官に渡そうとした時、その中身が目に入った綏蓮は一瞬凍りつくような表情を見せたように見えたが、すぐにまた普段の明るい表情に戻っていた。
「伺っている限りでは、この先の旅程は険しいものになるかと思いますが…せめてこの国にいる間、存分に見聞を広めて文久国のために役立てて下さいね」
「ご厚情感謝申し上げます」







 極めて広大な蒼高祇邦の中でも、特に最大の広さを持つ兼祐国では古来から様々な移動手段が存在してきた。
 その中でも、近年急速に普及してきている鉄路は、従来移動することに極めて不効率が伴っていた地方にまで往来を可能にしている。
 芳寧から歩いて行けば何年もかかるような地方にも、ずっと鉄路を使えば数週間で到着することが出来る。
 これにより人の交流は言うまでもなく、物資の流通が更に活発になり、芳寧と兼祐国の経済発展を支える大きな柱となっている。

「戴宗国については、我々もいまだ解明できずにいることも多いのが現状だが…」
 陽祥が芳寧を出発する数日前、文湘は最高レベルの国家機密情報だが、と前置きした上で戴宗国への入国方法を話し始めた。
「…戴宗国に入る前に、もう暫くの間芳寧に滞在願いたい」
「芳寧に…ですか?」
 想像していなかった文湘の言葉に、陽祥は少し戸惑った。
「事前に、戴宗の言葉を自由に操れるようになってもらわなければならないのだ。
 このことは我が国の国家情報部が把握したことだが、厳しい鎖国を行っている戴宗国にも国の出入りを許可する時が一つだけあるのだ。
 それは国内に物資を運び入れ、その後再び調達のために出ていく時だ」
「何のためにそのようなことをさせるのですか?」
「戴宗国が、何故1万年以上の長い間鎖国を行えたとお思いになる?
 国家の存立と国民生活の維持のためには、様々な物が必要になる。
 一般に、戴宗国はあらゆる物を完全に自給自足していると考えられがちだが、国内ではどうしても補充出来ない物もあるのだ」
「自給出来ない物…?」
「そうだ。
 具体的に何を他の国々から運び入れているのか、そこまでは我々にも解明出来ていない部分もあるが、戴宗の政府公認で封鎖された国境を出入りする者達が確実にいる。
 もっとも、一般の者が出入り出来る程警備が手薄な所など存在しないであろうから…それだけでも政府が何らかの形で関わっている者と用意に推測出来るがな」
「そのことと、兼祐国に留まる必要性とがどのように関連するのですか?」
「出入りの問題だ。
 その者達が外から国内に入る時、国境警備の兵士達は不正な侵入を防止するため、入国する者の検査をするのだが…その時に使われるのが戴宗の言葉なのだ。
 国を出る時も特別許可を証明した物の提示を何度も要求するなどしているが、人や物等あらゆる出入りに対する戴宗国の者達の神経の使い方は…まさに異常と言っていい」
「つまり、入国の取り調べに戴宗の言葉を使うことで、余所者をあぶり出そうというのですね」
「簡単に言えばそういうことになるな。…陽祥殿ほどのことだ、そのくらいまでに大した時間はかかるまい、あくまで会話程度のものであるしな」
「…承知しました。もうしばらくご厄介になるかと存じますが…どうぞご教授をお願い申し上げます」
「我々が戴宗国と呼んでいるかの国も、彼らの言葉では『フィルギース』と言う…なぜこれほど違っているのか、永遠の謎だがな…」





 そしてさらに数日後、国家情報部で戴宗の言葉を教え込まれた陽祥は、任務のために潜入する国家情報部の諜報員たちと共に遼悠海を渡り、戴宗国との国境地帯に踏み込んだ。
 継ぎはぎの多い質素な服装に、馬が引く数多くの魚を載せた荷車を先頭にした集団が、見慣れないデザインの鎧をまとった兵士に呼び止められる。
「そこで止まれ。フィルギースの特別許可証明を見せよ」
 明らかに文久国や兼祐国の人々が話すものとは全く異なる言葉…あたかも鳥や魚と会話しているような錯覚に陥りそうになる。
 荷車の先頭にいた男が黙って懐から一枚の紙を渡すと、受け取った兵士はしげしげと何度も見返して一団を調べ始めた。 「お前達の氏名、年齢、住所、出身地、国内に入る目的を答えよ」
 兵士は紙を返却し、荷物の内部を入念に検査し始めると、別の兵士が一団の取り調べを開始した。
「ラザーガ・ヴァルディージャ、東の都市セルフィリスに生まれ育った43歳だ。遼悠海で獲れた魚を運び込むために来た」
 諜報員たちはよどみなく答え、一人一人城壁の中へと入っていく。
 陽祥は、ここまで詳細な取り調べが行われるとは全く思っていなかった。
 …一瞬でも躊躇を見せれば、たちどころに疑義が掛けられる。
 咄嗟に、芳寧で教わったことを思い出しながら答えた。
「ディファルカス・リグノーシス。
 年齢23、現在ファルマカースで働いており、出身地ザルツファーク。
目的は食料、魚搬入のための下労(下働き)」
「待て。 フィルギースの中にザルツファークなどという場所があったか…?」
 その時、長城を抜けようとしていた諜報員の一人が、兵士の元に駆け寄った。
「ファルドの中心都市、アークフェルマスの近郊に地元民の間でそのように呼ばれている地域があるのです」
「相違ないか?」
 兵士は訝しげに陽祥を睨む。
「その通りです。
 アークフェルマスの北東に塩を含んだ川が流れており、その意味で一帯はザルツファークと呼ばれております」
「よかろう。ファルド地方は我々も詳しくない」
 兵士は、陽祥と間に入った諜報員を睨むように何度も見ると、二人を通した。

 長城を抜けると、その内側はどこまでも続く草原地帯となっていた。
「危ないところであった…外部の者であることが発覚すれば死刑は免れない」
「ここまで厳密な検査をしているとは、想像だにしておりませんでした。
 こうして窮地を乗り切ることが出来たのも、徳頼殿のお陰です」
 陽祥は長城が地平線の彼方に見えなくなったことを確認すると、取り調べの時に言葉を補ってくれた諜報員、文徳頼に感謝した。
「困った時はお互い様、というではないか。
 結局、戴宗国とはこのような国なのだ」